『阿波内侍から島倉千代子へ』



               髙野 澄 (著)
第2部
「東京だよ おっ母さん」
第1章
「見えずとも きっと見えます 見えました」

01
「この歌声は?」
「どなた、かな、この歌声の主は・・・?」
 首をかしげるだけでは足らぬか、くぐもった声でつぶやくのは阿波内侍あわのないし
 天から降ってきこえる歌声、このまま消えてしまうのか、困ったなとおもうと、まえよりもずっと明瞭、高音になって、またきこえる。
 なにかのまちがい、ひとちがいといって済ませてはならぬ歌声だとの直感がある。
 ──うかつに応対してはなりませんぞ。
「この歌声は・・・?」
「この歌声は・・・?」
 くりかえしの自問のうちに、気づいた。
 ──わたしは「この歌声はどなたの声?」との質問を、天にむかって何度も発してきたけれど、これがそもそもまちがいではないのかしら?
 ──そうだ、まちがいだ、まちがいなのよ。歌声の言葉そのものをはっきり発音しなければ、この歌声の主の耳に届いても、気づいてもらえないのだから。
 あやまりに気づくと、すぐに立ち直って疲れも悔やみものこらない、その率直が内侍のいいところ。
 舌先をぬらして唇をめ、喉をひらき、気合をこめて、天か
ら降ってきこえる歌声を復唱する。

  たとえこの眼は 見えずとも
  清いあなたの 面影は
  きっと見えます 見えました
  愛のこころの 青空に
           (注01)

 「新妻鏡」という歌謡曲の二番の歌詞、内侍の口からおなじ歌声がくりかえされた、その直後に、
「そのお声、もしや・・・」
 天から、別の声が降ってきて、何度もくりかえされる。
「そのお声こそ、もしや・・・もしや・・・ナイシさま!」
「とおっしゃるのは、あーっ、覚一さま!」

 阿波内侍と明石覚一、どちらも冥界に存在している。
 冥界には〈ひとのつきあい〉というものがない。
 ないと断言できぬかもしれないが、存在の可能性は希薄、ないに等しい。
 あの世──冥界では〈浮世〉ともいう──で濃厚なつきあいがあっても、いざ冥界の存在となってしまえば浮世でのつきあいは希薄になり、個人それぞれ気兼ねのない暮し──というか──時間のやりすごしというか──を送って、自分も他人もそうと気づかぬうちにまったくの無の存在となって、そのまま過ぎてゆくのが冥界というところ。
 例外はある。内侍と覚一こそ、格別のなかの例外。
 冥界の入口で、「こちらで例外とみなされているお方にお会いしたい」と注文すれば、「待ってました!」といわんばかりに走って出てくる、それが内侍と覚一。

02
「阿波内侍は浮世へ行きたい」
 浮世の存在であったころに平家一門の亡魂慰霊の事業を熱心におこなったから、内侍は有名だ。
 平家一門の亡魂それぞれを蜂にたとえ、内侍を女王蜂になぞらえる説がある。内侍はアマテラスオオミカミであられた、などと妄説をとなえるひとさえある。
 内侍は平安時代、覚一は室町時代、浮世を生きた時代は二百年ほど違うが、ふたりとも冥界に移ったいまでは問題にならない。
 覚一が阿波内侍の名と生涯、業績を知り、お逢いしたい、平家一門追悼慰霊の経験についておはなしをうかがいたいと熱烈にねがったとき、すでに内侍は浮世の存在ではなかった。

「見えずとも きっと見えます 見えましたの歌声がきこえ、この声はきいたおぼえがあるぞ、たぶん、いや、まちがいなく阿波内侍さまのお声だと、すぐにわかりましたよ!」
「おわかりになったのは、ききおぼえの歌声というだけ、でしょ。わたし、阿波内侍の声とは、すぐにはおわかりにならなかった」
 内侍は拗ねている。
 拗ねることで、嬉しさ、懐かしさを強調して覚一につたえようとしている。
「さっそくに・・・」
 再会をよろこぶのははやめにきりあげ、見えましたの歌声があがっている浮世の、いまはどこともわからぬ地点めざして、ふたりは急がなければならない。

03
「明石覚一も東へ飛んでいきたい」
「めざすのは東、ですね」
「東です。善も悪も、浮世でさわぎがおこるのは、たいてい東です。東におこって西につたわり、いきおいがはげしくなったと気づいたときには西も東も、もはや手遅れ・・・ああ、待ってください、ナイシさま」
 内侍の小走りの足音が覚一の耳にとどいたが、浮世では目のみえない法師だった覚一、冥界でも走るのは得意ではない。みえる目、みえぬ目の差は冥界にもある。

 気づいて止まった内侍のうしろへ、ようやく追いついた覚一、
「あなたが浮世へ、東へ飛んでいきたい理由は、浮世からきこえてくる見えずとも きっと見えます 見えましたの歌声です・・・ね」
「いまさっき、もうしあげたとおりでしょ」
 覚一の言い方がまわりくどいように内侍には感じられる、おなじことをくりかえしてばかりいるような。
「その歌声、わたしもきいたのです、だから・・・」
「その先を、もうちょっとくわしく、きかせてください」
「平家亡魂を慰霊する祈りは建礼門院さまとわたくし、阿波内侍が大原の寂光院ではじめました。そこへわたくしの叔父や従兄弟の唱導僧がくわわり、安居院唱導あぐいしょうどうの名目で慰霊事業をひきついでもらいました。
 そのまたあとに覚一さまの、あなたのお仲間の琵琶法師のみなさまが平家物語を語ってきかせる慰霊作業をひきつぎ、平家のすべての亡魂はすべて安らぎをいただきました」
「そのとおりです」
「わたくしも、そのようにおもっていたのですが・・・」
 内侍はいちどは言いよどみ、それから勇気をふるいもどして、つづける。
「天空からきこえてきたではありませんか、見えずとも きっとみえます 見えましたと、少年の声が」
「少年のちかくに、寿命が尽きたわけでもないのに命をうばわれ、冥界で苦しんでいる魂がたくさんある。その魂を救いたいから、だれか、こころあるひとが、見えずとも きっと見えます 見えましたと唄っている──そうとしかおもえないのです」
 内侍の丁寧な説明で、覚一は納得した。
「それがおかしい、異常です。源平合戦はとうのむかしに終わったのです、新しい戦死者がいるはずはない。それにもかわらず戦死者の魂にむかって、あなたの姿はみえないなけれど、みえているのですよよと励ます声がきこえる。われらの時代とおなじではありませんか!」
 内侍の顔が紅潮した。
 覚一に一歩ちかより、
「まさかとはおもいますが、源平合戦のやりなおしとか・・・そして、あなたの事情は?」
 間をあけると打ち明ける勇気が消えてしまうとおそれたのか、内侍の言葉のうしろに食いつくかのような勢いで、覚一が、
「当道座が解散させられた、というのです!」
「まさか?」
「なんども、なんども、口にしました、まさか、まさかと、唇から血が出るほどに・・・」
「ウソ・・・ではなかった?」
「この目で・・・といって、みえる目のわたくしではないから、そのー、もしやと」
「ごいっしょしましょう。時間を無駄にしてはなりませぬ。天空を飛翔して、浮世へ、東へ!」

04
「お待ちしてました、とバンナ法師」
 内侍と覚一は天空飛翔の途中で、その気はないにもわらず、降下着地していた。
 ふたりとも、いまやすでに、降下や上昇、A地点からB地点への水平移動を体験しなくなってながーい時間がすぎた。そもそも〈降下・上昇・移動〉とはなにかという概念さえ、ない。
「ここは、どこ?」
「ナイシさま、東西南北はおわかり・・・でしょうね」
 たずねる覚一にも、こういう言い方でよかったのか、どうか、自信がない。
「まずヒガシをきめる。そうすればニシ─ミナミ─キタの順序でわかってくる。ああ、でも、いまの浮世では、どうかな。むかしはそうだったというだけで・・・」
 内侍がゆっくりと顔をめぐらせ、太陽の位置をたしかめ、
「この時刻、お日さまはあの方角だから・・・ヒガシはこちら・・・」
 可愛らしい歓声につづけて、
「みおぼえがあります、あれはヒガシヤマ。清少納言さまがお好みで、『枕草子』の冒頭にお書きなされたヒガシヤマ」
 記憶の文章を読みあげる。
「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる──あれがヒガシヤマ、ならばここは、まあ、なつかしい!」
「さようにおっしゃるからには、ここは、あの、ワレラ琵琶法師がむかし、琵琶を弾いて平曲を語って稼いでいた、キョウト?」
「さよう。いまもむかしも、ここはキョウト」
 ふたりの背中に声があり、ふりむいた内侍の目に映ったのは、
「バンナさん、バンナ法師さんでしょ。わたくしは、ええと、あのー」
「お声でわかりますよ、あなたが阿波ナイシさま。わたくしバンナは琵琶法師としてはめずらしく、目がみえる法師」
 バンナは一歩さがり、覚一に弟子の礼をとる。
「師よ!」
「バンナ法師、声をきかなくなって、いくとしぞ」
「すぎた年をかぞえるなともうします。それよりは、師よ、お気づきにならんですか、この場が、京都の、どこなのか」
「はじめて、ではない、そんな感じが」
「わたくしを、はじめてこのあたりに連れてこられ、この地の云々うんぬんを説いてくださったのは師でございました」
 そういってバンナは、三人の横を南北にながれる、細くはあるが清冽な水に目をやり、内侍の視線をみちびく仕草しぐさをした。
 バンナの仕草にみちびかれ、内侍が、
「バンナさん、これ、堀川では・・・」
 バンナと内侍の会話に、覚一が割ってはいる。
「ヒガシに東山、ここに堀川がながれている、ならばここは」
 バンナの、わざと謎めいた仕掛けに反応したのは覚一より内侍が早かった。
「アグイ!」
 覚一は遅れをとったが、内侍のすばやい反応によろこびをかくすどころか、よろこびにくちびるが震える様子を内侍のみえる目にみてもらおうというわけだろう、
「アグイですよ。阿波内侍といえばアグイ、アグイといえば阿波内侍だった!」

 アグイ、字に書けば安居院あぐい
 内侍の伯父の澄憲ちょうけん、従兄弟にあたる聖覚せいかくなどの高僧が比叡山から降り、このあたりに里坊さとのぼうをかまえ、唱導による平家一門の亡魂慰霊の説経をやらぬかと内侍に勧め、内侍が応じてはじまったのが安居院の唱導しょうどうだ。里坊には安居院の別称もあったので安居院唱導の名がついた。

 慰霊の祈りは血縁者がささげる。
 平家一門の亡魂慰霊は平清盛の娘で安徳天皇の生母、建礼門院徳子の義務だ。
 長門の壇ノ浦で捕虜となって京都へ送り返された徳子は大原の寂光院で一門慰霊の日々に明け暮れ、女官の内侍が徳子の祈りを補佐していた。
 徳子が亡くなったあと、内侍は、澄憲や聖覚がおこなう安居院での慰霊事業の主役として活躍した。醍醐寺系の唱導もおこなわれ、佛教諸派のあいだで競争のかたちともなっていたが、内侍が主役をつとめる比叡山系の安居院の慰霊が先行する形勢であった。
 覚一が〈阿波内侍といえばアグイ、アグイといえば阿波内侍〉と称賛したのがこれだ。

「お粗末な、ちいさなあの小屋はとっくに壊れてかたちもないでしょうが、アグイの地面はわたしをおぼえていてくれた、嬉しい!」
 爪先を基点にして、内侍は右へ、左へ、身を回転させ、足裏から膝、すねから背骨へあがってくるアグイの感触をたしかめている。
 だが、さて、ふたりは、天から安居院の旧跡をめざし、〈あそこに降りるのだ〉と目標をきめて降下したのではない。
 内侍は嬉しさが先行して、ずっと遠くの東をめざして天を飛んでいた自分と覚一を途中でひきずりおろしたちからはなんであったか、探索しようともしない。
 バンナ法師は、内侍と覚一をこのままにしておけば、ありがたくも嬉しい三人の邂逅かいこうがとんでもない方向に曲がってしまうと気づいた。
 失礼は承知で内侍の袖口をつかみ、そーっと引いて、
「わたくしバンナが、なぜ、どうやって、この安居院の旧跡でおふたりを待っていたのか、天から地へ降りていただいたのか、おかんがえにならないのですか?」
「待っていた・・・バンナさんが、わたしたちを、ここで?」
 内侍は軽い気分で「まさか」と打ち消しの言葉を言いかけたらしいが、バンナの真剣な表情におされ、口をつぐむ。
 ──覚一さんとわたし、なにがきっかけで遠い東へ飛んでゆこうとしたの・・・だったかな?
 覚一は、内侍よりはバンナを相手にするのがよろしいとかんがえていたらしく、
「バンナさんも、あの歌声、ききました、な」
「ききましたとも、きき逃すはずがない。見えずとも きっと見えます 見えました──きいてすぐ、内侍さまも覚一師もきいたはずだ、きけばたちまち東の空めざして天空を飛翔なさる、おふたりだけを東に行かせるのは危険、わたくしバンナの手助けが必要で効き目もある、そうとわかって飛び上がり、おふたりを追い越して先まわり、ここで降りて、お待ちしました」
「バンナさんがお出でになったからには、ほかの法師たちも」
「五人や十人、もうすこし多いかな、内侍さまや覚一師をお手伝いいたそうと、やる気は満々。お気づきになりませぬか」
 バンナがぐるりと視線をまわすと、堀川の上手かみての水際にふたり、観世町かんぜちょうの入口ちかくに三人、町の住人とは雰囲気のちがう男たちがいかにも用ありげに歩きつつも、バンナが発するかもしれぬ咄嗟とっさの合図をみのがさぬさぬように身構えているのが知れた。
「安居院が、むかしみたいに、にぎやかになってきましたねー」
 浮きうきと嬉しさをかくせない内侍、ものごとを自分中心にかんがえるのはあいかわらずだ。
 内侍の浮きごころをおしかくさねば、というのか、しきりに東の一郭に視角をめぐらせていた覚一がバンナに言った、警戒心をかくしたままの小声で。
「そこに神社がある、参詣者のざわめきだ。むかし、ワレラが安居院の旧跡をたずね、内侍さまの亡魂慰霊の神髄を知ろう、まなぼうとしていたころには、このざわめきはなかった」
「さすが、お気づきですな、師よ」
 みえぬ目の師の感覚がむかしとかわらぬ鋭敏を維持しているのを確認して、バンナ法師、わがことのように自慢顔。
「気づくも、気づかぬも、寺社の門前の匂いをわすれはせぬぞ。ワレラ平曲語りの稼ぎの場の、ありがたい匂いだ」
 ひと息をついて、バンナ、三十歩ばかり東の方向にふたりの注意をひき、その名を言うのさえイヤでたまらぬ気分をこめて、
「あちらにはシラミネ神宮」
「神宮?」
「シラミネ神宮です」
「シラミネ──そのようなアヤシゲな名のやしろが、あのころ、ここにあったかな?」
 覚一の顔色が急変、つめたく強張こわばったのを合図のように、天からなにものかが降下する、ばたばたとさわがしい音がし、着地したのがわかった。
「マサヒト親王さま!」
 三人三色の声で「親王さま」と呼ばれた物体、いや、人間の姿をしているから物体というのはまちがいだろうが、といって、いまのいま、この場に、かつては浮世で「当今」「治天」「上皇、法皇」と尊敬、畏怖いふされた人間が、供奉の列もなしに、たったひとり、天空から降ってあらわれようとは、あまりにも場違い、時代違い。
 場違いであっても、三人が三人とも異口同音、「マサヒト親王」と呼んだからには、このひとこそマサヒト親王にちがいない。
 それにしても、この場の、こういう状況でマサヒト親王が天から降っておりてくるとは──
 このさき、おさえてもおさえきれぬ荒れ模様の展開になりそうだ。

04
「ムツヒト親王が当道座を解散した」
「シラミネ神宮など、知らぬぞ。ワレがゆるしたおぼえは、ない。ワレがゆるさぬ神宮、ましてやシラミネなどと名がつく神宮が存在しておるはずはない、ありえぬ!」
 親王はきびしく宣言したあとで、冷静をとりもどし、
「ひさしぶり、内侍よ、壮健なりしか」
 気のこもらぬ、定式じょうしきの言葉を地面に投げつけ、白峰神宮なる建物へずんずんと攻め寄せる──それぞまさしく〈攻め寄せる〉というのがふさわしい、うしろすがたも勇ましく、さわがしく。

 のこされた三人、親王さまがもどられるまでの時間つぶしといった気もあって、地面を脚の爪先でさぐりながら記憶をたどる。
 このあたり、平安京の造営までには数本の細い水の流れがあったが、工事がはじまると一本にまとめられ、堀川の名がついた。天然のままの流れではなく、人間の手によって掘削くっさくされたいきさつが堀川という名にこめられている。
 南北にながれる堀川を東西によこぎるかたちの道が、かつては北小路、いまは今出川通と名がかわり、交差地にちなんで、このあたりをたずねるには「堀川今出川」というと判りがはやい。
「ここが堀川今出川、すこし東へゆくと室町通で足利将軍の御所、すなわち花の御所」
「室町通と今出川の交差には散髪屋があって、散髪屋の前に〈足利将軍 花御所はなのごしょ〉の碑があります」
 そのあと、バンナ法師、言い方の調子が変わって、
「足利将軍──師よ、なんと懐かしい言葉ですねえ!」
「われら当道座が一座として朝廷で承認されたについては足利将軍家のお世話をいただいたものだが、その、ありがたい座の特権もいまでは雲散霧消、なさけない!」
「それ、ききました、当道座は解散を命じられのですね。按摩・鍼・灸で稼いでいたみなさまはそれぞれ勝手に稼ぎの途をみつけなければならず、生きるか死ぬかの苦行の日々、そうと知ってか、知らずか、朝廷はなんのお救いの手もお出しにはならぬとか」

 当道座が解散させられたのは三人には既知のことだ。
 覚一を師として当道座の制度確立事業を補佐したバンナは唇をかみしめ、怒りと屈辱に耐えている。
 ヒトのつきあいというものが希薄な冥界で、覚一とバンナは例外的に濃厚な交際をつづけてきた。座を解散させられ、ばらばらの存在として冷たい世に放り出された後輩の盲人の暮しをなんとかしたい一念がある。
「師よ・・・」
「おお」
「いま、あちらへ、白峰神宮へゆかれたのがマサヒト親王さま、ひと違いではないですね」
 声を落とし、万が一にも間違いはないでしょうねと念をおして、バンナが覚一の同意をうながす。
「こういう場合にマサヒト親王さまのニセモノがあらわれるはずはない、ホンモノ、まちがいなし」
「ありがたい──ではごさいませんか、師よ」
「バンナの言いたいのは、よくわかる。親王のおちからを借りて当道座を復活できぬだろうかと、そういうわけだな」
 そこへ内侍が口をはさむ。
「当道座を解散なさったのはナニナニ親王さまとおっしゃったのかしら?」
「ちょっと待ってくださいよ」
 内侍の問いが自分あてだとわかったバンナだが、目がみえ、学習と記憶のちからはゆたかでも、この問いに即答は無理だ。肩にかけた袋をはずし、厚い小型の書籍をひきだし、あっちこっちをめくって、みつけた。
「ムツヒト親王」
 内侍と覚一が「ムツヒト親王・・・」とつぶやくところへ、筋肉が張りつめているようにはみえない体躯たいくをゆーさゆーさ、のんびりゆすりつつ帰ってきたマサヒト親王、
「アヤシゲなる神社に参詣する民がおるとは信じたくないが、あれは案内看板というのか、読んでみると、シラミネ神宮と称し、ワレの先代、異母兄のアキヒト親王を祭神としておる。ワレに敵対して保元乱ほうげんのらんをおこした兄を、ワレは罰して讃岐に流し、まもなくゆるしたしるしとして讃岐院さぬきのいんの上皇諡号しごうをさしあげ、廟所ももうけた。廟所の山がシラミネ、そこまでは知っておる。兄は〈瀬をはやみ岩にせかるる滝川の・・・〉の歌ををワレに送って和解のしるしとしたから、ふたりとも敵対のこころは消えている。それなのに、消えた火をもういちど燃やしてふたりを戦わせようとでもいうのか、兄の魂を讃岐からよびかえし、ワレがさしあげた讃岐院のかわりに崇徳院の諡号をおくり、シラミネ神宮などというものを創設したようだ」
 覚一は親王にちかより、小声で、
「われらの当道座を解散させ、盲人を路頭に放り出して困窮に追いおとし、おにいさまの讃岐院アキヒト親王にあらためて崇徳院の諡号をおくり、あそこにシラミネ神宮を創設したのはムツヒト親王さまだそうです」
「ムツヒト・・・即位は、いつ?」
 バンナが近寄り、小声で、
「マサヒト親王さまからかぞえて・・・」
「ワレらは急がねばならん。親王よばわりはやめて、マサヒトだけで・・・ああ、いや、〈さま〉はつけたほうがよろしいかな」
「マサヒトさま、もうしあげます、ムツヒト親王の即位はマサヒトさま即位の七百十三年あとでした」
「七百十三年──長いとも、短いとも」
 フーッと息をもらしたが、それを溜息と呼んでいいのか、どうか断言できぬものがある。
 ここではじめて覚一とバンナに気づいたのだろう、親王はふたりのからだに不審たっぷりの視線をあびせ、無言で、内侍に〈説明せよ〉と命じたが、内侍が反応する間もおかずに、
「あ、内侍よ、ワレの言いまちがいだ。おふたりについて、説明してくれぬか。浮世のこの場でワレの目にみえるのだから、おふたりとも冥界から飛んでこの場に降下されたとみて、まちがいではないか」
「まちがいではございませぬ」
 前か、後かに「親王さま」をつけようか、つけぬほうがいいかと迷ったあとで、「つける」「つけぬ」の差に気をくばるのがそもそもよくないと悟った内侍の決断がある。その場の雰囲気、話題の性質などにしたがう合理優先、それをつらぬくのが双方にとっていちばんやりやすい。
 覚一とバンナについて親王に説明する、その機会を親王自身が与えてくれたのを、内侍は歓喜のうちにうけとめた。

06
「はじまりは大原御幸 ワレも同感」
 阿波内侍はマサヒト親王を聴き手として、いきさつを語る。
 長門壇ノ浦から京都にひきもどされ、大原の寂光院に隠棲した建礼門院徳子は平家一門の亡魂を慰霊する祈禱の日々をおくっていた。
 そこへ、「参るぞ、ワレをむかえる用意をせよ」と告げたのが親王だ。「用意をせよ」が、じっさいに何を意味しているのか、かんがえる間もなく、すぐに察せられた。
 ──徳子がマサヒト親王の皇子を産む、いや、徳子の意志の如何にかかわらず、産ませられる。
 ──親王は皇子を鎌倉の源氏の幕府におくり、宮将軍みやしょうぐんとする。
 ──徳子はこの計画に同意すべし。
 ──いやならば、平家一門の亡魂をひとまとめにして慰霊することに同意せよ。、
 二者択一の難問だ。
 むごい、としか言いようのない命令だ。
 マサヒト親王の皇子の高倉天皇と徳子のあいだの皇子、それが壇ノ浦で亡くなった安徳天皇なのだ。安徳天皇の祖父のマサヒト親王の皇子を徳子が産むのは人倫の大本にそむき、途方もなくおそろしく、おぞましく、是非善悪をかんがんえる気もおこらない。
 平家亡魂をひとつにまとめて慰霊する案は、徳子が平家一門のひとり、ひとりとおなじ立場の女性であるこことをかんがえれば、受け入れられぬはなしだ。
 「平」の姓を名のって戦死した平家武士ひとり、ひとりの亡魂の名を呼び、決して長くはないままで終わったその武士の生涯に寄り添って語り、冥界の一個の存在としての自分自身に気づいてもらう、それが徳子の慰霊なのだ、ひとつにまとめてなど、とんでもない。
 マサヒト親王が、どちからひとつを選べと責めるならば、自害して拒絶する、それが徳子と阿波内侍、平重衡の未亡人で安徳天皇の女官だった大納言典侍だいなごんのすけの三人のあいだで一致した返答案だ。
 そういうわけで、三人の返答案はかたまっていたが、大原御幸の当日、マサヒト親王が難題をふっかけて「イエスか、ノーか」と諾否を迫る事態はおこらなかった。
 すでに摩訶迦葉まかかしようの心境になっていた徳子は命とひきかかえても拒絶する堅い意志をきめ、そうと知った内侍は、失敗すれば寂光院の山肌にはりついて天にも昇れとばかりのちからで、このうえもなく明瞭に叫んだのである。
「還御なしまゐらッさせ給へ!」
 
 このとき、寂光院の庵室まえの廊下にひとりで座していた法皇マサヒト親王は、いつもならありえぬ臣下どもの応対が納得できず、といって反抗する術もないままに単身放置されているうちに意識が朦朧もうろう、簡単にいえばボーッとなり、なにがなんだか、わからなくなっていた。
 その一瞬の機をのがさずに内侍が叫んだのだ。
「還御なしまゐらッさせ給へ!」
 これを法皇は、朦朧から抜け出す救いの言葉としてうけとった。「今日の御用事は済みましたよ。さ、みんないっしょに御所へお帰りしましょうね」ぐらいの軽い意味、言葉の魔法にあやつられたというのもよろしいか。
 遠い大原へやってきた用事はなんであったのか、それさえ忘れてマサヒト親王、気分は上々、徳子の返答もきかず──カズサ法師にいわせれば「手ぶらのまま」──上機嫌で寂光院から帰京して、すべて終わった。

「あれからいく日かすぎて、気づいたぞ、寂光院では阿波内侍に、して、やられた。ナレの〈還御なしまゐらッさせ給へ〉の魔法にひっかかったのだなと。
「さぞお怒りかと・・・」
「怒らずにおらりょうか」
 頭を垂れる内侍に、親王が照れくさそうに、うちあける。
「亡魂の数がいくつであろうと、慰霊の祈禱は亡魂を一体にまとめて相手にすればよいとかんがえていた。ワレラ皇室でのしきたりでは、そうなっていた。それが、変わった。徳子と内侍におしえてもらって、ワレのかんがえが変わった。慰霊とは死者の魂を、魂だけを相手とすること、そして魂はひとりに一個、別々なのだから、慰霊の相手もひとりずつ、別々でなければならんのだと」
「マサヒトさま、すばらしい!」
 おもいもよらぬ嬉しい展開に、覚一とバンナは相好をくずしている。
 師とバンナに危険がないようにと、シラミネ神宮のあたりを正体をかくして散策しつつ警戒をおこたらぬ法師たちにも事情は察せられ、よろこんでいるはずだ。

07
「マサヒト親王を降下させたのは?」
「ところで・・・」
 バンナ法師が言いよどむ。
「親王さま、天空を飛んで東へゆこうとなされた、それは、なにがきっかけで?」
「おお、それ、それ・・・」
 バンナに問われたのがよほど嬉しいらしく、親王はきこんで説明をはじめた。説明とは呼びにくいから、別の言い方、たとえば〈政策執行にあたっての解説〉などのほうがふさわしいか。
「冥界には、みるべきモノがすくない。気が散らぬ利点もあるが、ものたりぬうらみがある。だが、慣れてくると、みるべきモノの少ないのが気分の良さにつながり、代わりに、感じるコト、肌に触れるコトの親密が嬉しくなる。モノよりもコトが優先される嬉しさ、そういえばわかってもらえるかな」
 バンナが一歩だけ親王にちかより、
「生まれたときから、あるいは人生の途中で目がみえなくなった仲間に、人生をおくる智恵の言葉として〈モノよりコトを〉を贈るのがワレラ当道派のしきたりでした。智恵の第一がコトのハ──言端・言葉なのです」
「よく、わかる。皇室にも公卿の暮しにもモノはあふれているが、コトは少ない。コトに触れる機会がすくない場で育ったから、ワレは乱暴な人間に育ってしまった。ワレひとりのあやまちではないが、もしも、あのまま今様歌を知らなければ、ワレは救いようのない人間のままであったはず。今様歌を知って、とにかくも恥知らずの人間であるのは免れた。今様歌はコトである、コトのなかのコトだと言うとおおげさだが、かまわぬ、言わせてもらう」
 天皇と法皇、永年にわたって俗世最高の地位にあっただけに、マサヒト親王の述懐にはじゅうぶんな迫力がそなわっている。
「そのさきを・・・」
 バンナの言い方に躊躇の気配があったのは、なぜ東めざして天空飛翔をしたのか、その問いにたいして答える義務を親王に忘れられてはこまるからだ。
「歌声に敏感になり、そうなったワレ自身を誇らしくおもうようになってまもなく、きこえてきたのだ、どうやら東の空から、くりかえし、くりかえし、見えずとも きっと見えます 見えました──少年の歌声だ」
「わたくしたちも、そうなのです!」と、これは内侍。
 つづいてバンナが、
「ワレは師と内侍さまを追って」
 バンナの説明をひきとるかたちで、親王が、
「とすると、東の空をめざして飛翔していたワレをここに引き下ろしたのは、だれのちからであるか、またはナニゴトであるのか?」
「親王さまはお気づきではない?」
 内侍の不審の問いに答えようと身構える親王の姿勢には、なにやら警戒の姿勢がみえる。
「あちらの・・・」
 シラミネ神宮の方向を顎をしゃくって、
「正体のはっきりせぬ神社に敷地を奪われて憎んでおる、元の地主ではあるまいか」
「売値と買値のあいだの差がありすぎて交渉がこじれた、とか、なんとかで騒動がおこり、親王さまのおちからを借りて交渉を有利にすすめようと」
「ありえぬはなし、でもなさそうだが、ま、ちがうだろ。そのように気弱のものに、天空を飛翔していたワレを無理矢理に降下させられるはずがない」
「では、だれが親王さまを?」
「兄・・・であろ」
御兄おにいさま・・・アキヒト親王?」
「〈瀬をはやみ・・・〉の歌で一度はワレと和解したが、それを弱腰と批判されて気をとりなおし、古くさい怨霊理論を逆手にとってワレに復讐の戦いをいどむつもり、そうにちがいない」
 バンナはうしろをふりむいた。
 マサヒト親王を傷つける、なにか邪悪なものが親王の身にせまっている、かのような恐怖に青ざめた顔色のバンナ。
 そこへ、
 見えずとも きっと見えます 見えました
 東の空から、はっきりとわかる少年の歌声。
                    (第2部(01)終)