『阿波内侍から島倉千代子へ』(第2部-5章)



               髙野 澄 (著)
第2部
「東京だよ おっ母さん」
5章
「コトのハ」

29
青墓傀儡あおはかくぐつの歌姫たち」
 浅草の宿では、不審におもわれぬように、あれこれ気づかっている。
 ずーっと無人であるかのように疑われぬよう、手拭いを濡らして絞って窓下に吊りさげ、乾かしているかのように装ったり、たまには物音をたてて、ひとが住んでいるふうに装う。
 無人といえば無人であるし、といって、何者も住んでいないといえばウソになり、魂というれっきとした存在の意識が住んでいるのだから、ウソはつきたくないのが本性の長老、そして責任者でもあるシンコ法師は頭が痛い。

 シンコ法師の頭が痛い、ある日、
「シンノウさま!」
 この世のものともおもわれぬ、呑気または不用心というしかない世間ばなれした声が、浅草の宿の、ガラスと紙の混ぜ張り障子をふるわせた。
 居合わせた全員、浮世の宿の安全もこれでおわりかと恐怖に顔をふせた。
「シンノウさまア、マサヒト親王さまア!」
 これ以上はない健やかな声とともに出現したのは・・・
「おおっ、まさか、これは!」
 親王マサヒトの、あまりにも強烈な驚きゆえに乱れに乱れた言い方にこたえて艶かしい姿を浅草の宿にあらわしたのはほかでもない、青墓傀儡の歌姫サワ。
 親王の驚愕の原因となったサワ本人としては、頼りにしている親王の、あまりにも強い驚きを前にして怖じ気づいたのか、
「親王さま、まさか、おからだの具合が・・・?」
「からだは、悪くないぞ。悪くないしるしに、そなたの、名前というか芸名というか、忘れたことはない。ええと、ええと・・・」
 ゾロゾロと姿をあらわした法師たち、ひごろは頼りにし、頼りにしているからこそ尊敬もしている親王の狼狽に総員が精神の動揺にみまわれた。
 ──ワレラが頼りとする親王さまの沈着喪失と浅草の宿の安全はどうなるんだ?
 さすがは親王、おどろき震える法師たちの顔をみているうちに、法師はともかく、天皇経験者たるワレが沈着をとりもどさねば──といったふうに気をとりもどしたらしく、突如として唄いだした。

 もどれないのかナ
   あの日 あのころ

 歌姫サワが「キャーッ」と激しい感動の声とともにマサヒト親王にとびつき、
「ああ、よかった、ホッとした。親王さまが、わたし、乙前さまの第一の弟子のサワをお忘れになってしまわれたかのかと、本当に心配したのですよ、マサヒトさま!」
 念のためにというつもりにちがいない、もう一度、
「マサヒトさま!」
 すこしだけ冷静な歓喜の声とともに親王にとびつき、親王のかちだを撫でまわしてから、離れ、三年ぐらい会わなかった愛児との再会の歓びの表現はようやく済んだと確認した母の表情となって、
「お懐かしゅう存じます!」
「おもいだしたぞ、青墓のサワ!」

 もどれないのかナ
   あの日 あのころ

 サワと親王ふたり、声をあわせて唄うのに合わせて、サワのうしろで自分の出番を待っていた複数の女たちが、

 なんの掟があるものか
  アジサバイワシ イカにクジラに

 サワの仲間としての身分を証明するパスポートの役割となる歌を唄った。
 時と場は変わっても最上位の位置をしめるのはワレでなければならぬという宿命を背負っている心境らしい女がひとり、ツイーッと一歩、また一歩と進んで、
「親王さま、スケノリさまから、わたくしの名をおききになられたはずでございます」
 念を押した。
「さようか。ならばあなたはサワのお仲間!」
「さようでございます。親王さま、おひさしぶり」
「お名前は、なんとおっしゃったか?」
「浅草のカフェー黒竜江のクサカベミヨコでございます」
 ミヨコのうしろに下がっていたサワが、しずかにちかづき、
「親王さまが浮世でご活躍のころ、わたくしたちとミヨコさんは縁がなかったのですが、あのアドバルーンが東京の空にあがって青年将校の反乱が鎮圧されたあと、お仲間になりました」
 サワがミヨコの身元保証人になったいきさつが、これでわかる。
 ミヨコにつづいてハナエ、ヨシエなどがつぎつぎとサワに紹介されて親王のまえにあらわれ、感動、敬礼、勇気百倍の気分もあらわに一歩さがる。
 彼女たちが気分をあらわにしても、もとからちかくにいる浮世の生身の人間に感づかれてはいないから、宿の正体を疑われるおそれはない。

「サワよ、スケノリは達者かな」
「藤原資徳すけのりさまは元気いっぱい、数日後には親王さまのおんまえに姿をあらわすはずでございます」
「相変わらず、か」
「冥界の、明けても暮れてものんびりの日々はお気にめさぬ様子」
「チョコチョコとせわしなければ生きている気がせぬ男」
 アレは如何した、カレはどうか──親王の質問がいつになってもおわる気配がないのに、サワは気づいた。
 気づいたが、質問はそのあたりでお止めくださいとは言えぬ立場のサワ、親王が質問に疲れて口を閉じるまでは耐えねばならぬとあきらめの境地。
 サワの苦境がわからぬ親王ではない。
 原因はワレにあり、サワに迷惑をかけているのは自分にほかならないとわかってはいるが、といって、どうすればこの状態を上手に終われるのか、その智恵をさずからぬまま育ってまずは天皇、それから法皇になったものだから、世間に波風たてずに生きる智恵をさずからなかった。

 サワとマサヒト親王の、まるで互いが敵であるかのように睨み合うばかりの様相に気づいたのは阿波内侍だ。
「サワ・・・さまとおっしゃいますか」
「美濃の青墓から法皇御所にあがりました乙前おとまえさまのお供、サワともうします。青墓からのお供はわたくしだけではごさいませぬ、ほかにも」
「オトマエ!」
 禁句を耳にした親王、ワレを忘れてその名を叫んでいた。
 オトマエ──その名は禁句である。
 禁句といっても、その名を耳にしたとたんに腹具合がわるくなる禁句ではない。
 ──ワレの秘密の真底しんそこを知るのはオトマエだ。
 ──オトマエの協力がなければ今日ただいまのワレの誇らしい生涯はありえなかった。
 こういう意識が消えたことがないから、いってみればオトマエがワレの弱点、オトマエの名は弱点のしるし、となる。
 異母兄アキヒトとの戦いに勝って皇室の運営権をにぎったマサヒト、じつをいえば、天皇や法皇にはなりたくはなかった。
 ヒトという言葉に強い関心があり、ならばまことのヒトになりたいものだとかんがえていた。
 かんがえはしたが、まことのヒトというものをわが目で観て観察した記憶がないのを知り、絶望しかかったときに、若い公家どもがイマヨウを唄って楽しむ光景をの当たりにした。
 ──イマヨウとは今様と書く・・・
 これを今様歌と呼ぶのが正しいならば、皇族や公家どもが日ごろ、なれなれしく作り、気軽に唄っているもの、あれは古様歌と呼べばいいのか?
 イマを生きる、そのほかに途はないはずのヒトが古様の歌を唄って安楽に、いや、安楽ふうに生きている、それは、まことのヒトが唄うべき歌なのか?
 マサヒトの頭のなかに聞こえた声は、なんと、まあ、
 ──まこと、ではない!
 疑う余地はない。
 その日のうちに信西入道を呼びつけ・・・
 ──今様を唄いたい。今様歌を唄うには、どうすればよろしいのか?
「美濃の青墓が傀儡の稼ぎ場、ふだんの居場所です。数十人のかしらのうちの乙前と名のる女、彼女を召されるのが最上」
「オンナ!」
「傀儡は男と女の集団、オンナのかしらが乙前」
 それから三日、東山の麓、むかしは法住寺といった大寺が廃された跡地にたてられた信西の豪壮な別邸に、信西に伴われた乙前があらわれ、かけつけたマサヒトのまえで唄って聴かせ、踊ってみせた。
 遊びをせんとや生まれけむ
    たわぶれせんとや生まれけむ
  遊ぶ子供の声聞けば
    我が身さへこそゆるがるれ(注○)

  神ならば
    ゆらゆらささと降りたまへ
  如何なる神か
    物恥ものはぢはする(注○)

 マサヒトの胸にこみあげた感情、それを言葉にすれば、
 ──これが、これは、これこそ、まことのニンゲンの歌だ!
 
30
「乙前は生涯の師」
 マサヒトとサワは懐旧談にふけって、終る気配がない。
 いつまでも付きあってはいられないとしびれをきらしたのか、阿波内侍が別けてはいって、
「それからというもの、親王さまは法住寺跡の御所に入りびたり、乙前さまをお離しなさらず、昼も夜も今様歌の稽古ばかり・・・」
 ──ほかに、なにがある?
 そう言わぬばかり、吹っ切れた様子の親王に内侍が気を悪くせぬかと気兼ねしたらしいサワが内侍にむかい、
「法住寺跡の御所に日参しはじめたのが平清盛でございました。源頼朝も親王さまに取り入りたいのはあきらかでしたから、親王さまを味方につける先陣の争いは五分と五分、源平どちらの勝ちとなるか、予想はつかぬ日々でしたが、勝ったのは清盛でした」
「清盛の名、ひさしぶり」
 さしたる興味もなさそうな親王に気遣いもみせず、こんどは内侍がサワに代わって、
「わたくしのじじ、法住寺の跡地の持主の信西入道を説き伏せ、阿弥陀堂を急ごしらえし、千体の阿弥陀佛像をおさめて親王さまに寄進したのがほかならぬ建礼門院さまの父上、清盛でした」
「さよう。三十三間堂と呼ばれた」

 こんどはサワが会話の主導権を内侍から奪い返して、
「阿弥陀堂建設工事の音がトンチンカンカンと響くなかで今様歌のお稽古がはじまり、いつおわるともなくつづきましたと、これは乙前さまの思出語おもいでがたり、そのままです」
「無理をして発声するから喉が破れて出血、これ以上は耐えられぬかと口惜しい気に負けそうな日もあったが、そこをもう一歩だけ耐えて、よい結果をむかえた」
 わが身の幸運をよろこぶほかに興味のなさそうな親王に押されたのか、内侍とサワは女の争い、意地の張り合いのほこをおさめた。

 親王がむかしを思い出したのか、
「ある日、乙前師はとつぜん、ワレにむかって語ったのだ」
「乙前師が、なんと・・・?」
「乙前師はもうされた──卑しい生まれ、まずしい生まれのワレラは文字を知らず、読めず、書けずの生涯を生きねばなりませぬが、そのかわりに、でございましょう、どなたさまに対してもコトのハを声で語り、つたえ、聞ける格別の芸のちからを授かったのでございます──と」
 音をたてずに唇が「ホウ」というかたちにひらいたサワと内侍、その背中、三人目、四人目の位置に、だれにも見えぬように、気づかれぬうちに身を寄せ、耳をそばだてていたのは覚一とシンコ法師だ。
 背後には気づかぬまま語る親王の声が熱をおびてくる。
「乙前師はワレにもうすのだ──ヒトサマの中山道往来がいつまでも賑やかなはずはございませぬ。いつまでも今様を唄うだけでは生きられぬはず、歌でも踊りでも、およそ芸と名のつくことのすべてを演じてワレラ傀儡が生きられるようにちからを尽くす、それがわたくし、中山道の青墓傀儡の乙前の願いなのです。親王さま、どうか、おちから添えをと──ワレのまえに膝まずき、涙をながしてもうしたのだ。ああ、なんと恥ずかしいこと!」
「シンノウさまが、なぜ、恥ずかしい?」
「言わなかったかな。今様をおしえてほしいと頼んだとき、ワレは乙前師のまえで膝まずき、あなたを師として今様の稽古にはげみますと師弟の誓いをたてたのだ。ウソでもない、その場の勢いにまかせた偽りでもない。だが、時がながれ、世が変わるのをおいかけるに急かされたあまり、いまのいままで師弟の誓いを忘れておった、なんと恥知らずの弟子であることよ!」

31
「丹後の田辺 心種園」
 浅草の宿──
 日ごとに人数がふえる。 
 ふえてはいるが、そうと知っているのは当事者だけで、宿のそとから不審の目はむけられない。
 おおむかしの美濃の青墓で中山道往復の旅人相手に稼ぎ、春になると平安京に出て唄い、踊り、芸を演じて稼いだ傀儡たちが人目にはみえぬ姿になって浅草に住んでいるのはなぜか? なんて疑うひとはいない。
 傀儡なんていう芸人を知っているさえ皆無の世の中だ。

 ある日、浅草の宿で、あらたまった顔の明石覚一とシンコ法師がマサヒト親王のまえにあらわれ、、
「お願いが・・・」
 神妙な様子で挨拶したから、マサヒト親王は泡をくらった。
「ワレに・・・願い・・・おふたり、そろって?」
 身分の高下というものがあり、身分の低いものから高いものへ期待することがあると、言葉や文字のかたちにしてつたえる、それを〈願う〉という。
 かつて、ある時期、マサヒトは〈願われる〉ばかりの立場だったが、それが終わってからは願われたことがないから、言葉さえ忘れていた。
「願い・・・?」
 くりかえし、ようやく〈願い〉の意味をおもいだしたが、こんどは、目の前に平伏している覚一とシンコ法師が自分にあてて〈願い〉をつたえているのが身分の高下を乱す所業のようにおもわれ、自分はどのようにふるまえばいいのか、狼狽するのが精一杯だ。
 そこへバンナ法師があらわれ、親王と覚一とシンコ、浅草の宿では先輩にあたる三人の大物がそれぞれのかたちで狼狽しているのをて取ったのはさすが学者の沈着。
「かつて当道座の恩恵をうけたワレラ、丹後の田辺、通称は舞鶴城とよばれる細川幽斎ゆうさいの田辺城跡と城下をみて、空気を吸い、あれこれとかんがんえたく、しばらくの暇をいただきたい、それが願いでございます」
「ホソカワユウサイ、タンゴ、タナベ?」
 ついさっきまでは狼狽の極みにあった親王だが、ホソカワユウサイ、タンゴ、タナベという言葉の、どこに興味と関心を惹かれたのか、それは言わず、いきなり膝をのりだして、
「ワレに許しを請うなど、間怠まだるいるいことは放っておけ、いますぐに、つべし!」
 第七十七代天皇マサヒト親王、英邁であり、いささか強引なところのある君主の威厳をとりかえすのに時間はかからなかった。

 第百七代のカタヒト親王の治世、大名の細川藤孝ふじたかが織田信長から丹後国を与えられ、海浜の宮津に本城を、田辺に支城をかまえた。
田辺城の城郭は鶴が舞う優雅な姿に似ているといわれ、舞鶴城の名もあった。
 藤孝は宮津の城を本城とし、田辺の支城-舞鶴城は嫡子の忠興の居城とした。

 さて、足利将軍家の独裁はいよいよ弱まり、諸大名は天下覇権の機会をねらっていた。
 諸大名のなかでは尾張の織田信長がもっとも勢力が強く、足利氏にかわる将軍に任命されるのは信長だろうとの噂が高かったが、決定的ではない。安芸の毛利輝元、越前の柴田勝家も覇権奪取の機会をねらっていた。
 信長はとりあえず足利一族のひとり、義昭を新しい将軍に仕立てようと画策、「義昭を支持する」と宣言した。
 すかさず藤孝は、信長に協力して義昭を支持する立場をあきらかにした。
 丹波亀山の明智光秀も信長支持の姿勢をあきらかにし、これで信長の覇権掌握は有望となった。
 信長は義昭を擁して入京に成功、義昭がタカヒト親王から新しい将軍に任命してもらう筋書きがきまったその前夜、同志のはずの明智光秀が信長の宿舎の本能寺を襲撃、信長を殺した。

「本能寺の変」
「ホンノウジ──いずれ余暇をみて参ってみよう」
「ああ」
「なにが?」
「ただいまの本能寺は当時とは違う場所に再建されておりますが」「双方に参ればよろしい」

 藤孝は異変をきいて宮津から本能寺にかけつけようとしたが、まにあわず、剃髪ていはつ出家し、幽斎玄旨ゆうさいげんしと名のって田辺城に隠居した。幽斎は隠居号、玄旨は出家号だ。
 幽斎の嫡子の忠興ただおきが丹後の領主、宮津城の主となった。
 信長の筆頭家来格の羽柴秀吉は中国の戦線で毛利氏と戦っていたが、本能寺の異変をきいて飛んでかえり、山城の天王山のふもとで光秀を撃破、光秀の天下は数日で消えた。
 
「天王山は西国から京都への出入り口、ここで戦って勝てば京都まではほんのひとあし」
 バンナの説明に親王は相槌を打って、
「ならば、天王山で勝った、その、ヒデヨシが将軍になったのか」
 マサヒト親王は早合点のまちがいを犯しているが、無理はない。
 秀吉のライバルの柴田勝家は大名としては秀吉よりも格の高い存在、衆望のおすところは勝家であって秀吉ではない。
 万が一に秀吉が勝家に勝っても、それがすぐに信長後継者の椅子につながらないのはいうまでもなく、支持者を減らす結果にしかならないだろう。
「ヒデヨシは信長が破滅した結果を、自分のために最大限に利用しました」
「政治家というものは、多くの場合は武力よりは頭を、智恵をつかうのが得策なようだ」
 自分で言い、自分で首をふって納得する姿勢をまわりにしめすあたり、親王もなかなかのもの。
「で、どうした、ヒデヨシは?」
「信長さまの後継者を選定し、そのかたが喪主となって信長さまの葬儀をおこなう、これを最優先すべしと言い出しました」

 天下争奪戦のいちばん先を走っていた信長が殺された。
 これ以上はない異変だが、異変をそのまま引きずれば大損をするのは自分だと自分で気づいたか、他者から忠告されたか、そのあたりは微妙であり、決定的なことはいえないが、忠告があったとすれば幽斎にちがいない。
 主君が戦死した。
 最優先、それは信長の後継者をえらんで喪主とし、正式な葬礼をすます、すべてはそのあと──これが秀吉の提案、だれにも反対できない。
 信長の重臣たちは尾張の清洲きよすにあつまり、信長の孫の三法師さんぼうしを織田家の新しい主人にえらび、三法師を喪主として葬儀をすませた。葬儀の主催者はもちろん秀吉。
 三法師は本能寺で戦死した長男信忠の子だから直系相続のしきたりはまもられたかたちになり、ライバルたちの反対は未然に封じられた。
 おさない三法師はまもなく秀信と名のるが、秀吉の傀儡かいらい主君にすぎず、織田家イコール秀吉の実態はこうして姿をあらわした。

 マサヒト親王は覚一とバンナの縷々るるとした説明にいちいちうなずき、〈それでッ、その先は?〉とかせる顔つき。
 あつまってまわりを囲んだ浅草の宿の法師たちも、いささかの知識はあるが詳しくは知らない戦国乱世の政情に興味をそそられる。
 それに反してマサヒト親王、いちばん大切なはなしは、いつ出てくるんだろうか、まさか、このままで終りとはおもわれないがと不審の表情になってきた。

「幽斎玄旨は若いころから歌に精を出し、和歌の名人として名を知られていました」
 満足このうえない親王の表情。
 みえぬ目の覚一がうなずいて、〈やはり親王さま、お気づきが早い〉と納得の表情を親王に返した。

32
「古今伝授 無形の権威」
 戦国時代の武将の教養といえば茶湯ちゃのゆが第一だが、公家の文化にあこがれ、公家ふうの暮しにあこがれる気持ちも濃厚、歌の道に精進する武将もすくなくはない。
 細川幽斎は歌に精進し、歌をいえの芸とする公家からも一目おかれる歌人として京都では評判が高かった。
 万葉のむかし、和歌は身分の高下を問わぬ文化だったが、やがて上流階層に固有のものとなり、平安時代には皇族と公家によって独占されると、作品の等級を評価する権威が生まれてきた。
 和歌の権威の頂上に位置したのは天皇だが、最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されてから、歌人としての優劣、高下をきめるしきたりのようなものがはじまった。
 『古今和歌集』の何番目のこの歌の、この節の意味はこのように解釈するのが正しいのであるぞと、特定の作品の秘密といったようなものを限定し、その歌の味わい方、キーワードなどをきめ、一代にひとりずつ、秘密のうちに伝授する歌人があらわれてきた。
 古今伝授こきんでんじゅという権威のシステム、それを牛耳ったのが室町時代の歌人、東常緑とうのつねよりである。
 天皇の権威に介入するかのようでもあるが、作品を『古今和歌集』に採用するか、せぬかの選抜において、すでに天皇の権威はじゅうぶんに尊重されている、さしつかえないと解釈されたわけだろう。

「謝礼という名で、秘密のうちに、すくすくないおカネも動いたのでしょうね」
「たぶん、ね。とはおもうが、関係者は秘密をつたえるひと、秘密をうけるひと、ふたりだけだから、実情はわからないから、たとえ知っていても口にしないしきたりになっている」
「カネがうごけば、秘伝を伝授する相手はだれでもかまわぬとはいかんでしょう。伝授の重みを否定してしまうから」
「いま、秘伝はダレダレさんがお持ちだと知れても、あのひとの歌なら当然ということで、通用する」
「最後は歌の良否できまる」
 気楽、そして無責任ななうわさばなしに耳をかたむけていたマサヒト親王、
「ワレが浮世から冥界にうつったあと、そのようなことが起きていたとは、知らなかった!」
「マサヒトさまにはかかわりのないこと。ただいま、この場では、ご放心なさいませ」
 伝統的な和歌よりも、民間で唄われる今様に関心のほとんどが惹かれる親王、古今伝授という行事を知らされても衝撃は感じていらしいとわかって、覚一もバンナも、ぞろぞろとあつまってきた内侍やサワ、法師たちも気をゆるし、そもそも古今伝授のはなしがどこから出てきたのか、忘れてしまいそうな自分たちに気づかない。
 だが、親王ただひとりは、わすれてはいない。
「細川幽斎は、いつか、どこかで、古今伝授の肩書を使うのであろうな、覚一さまよ、バンナさまよ」
 覚一もバンナも、幽斎が、如何に見事に古今伝授を使ったのか、もちだすタイミングを図っていたから、親王から「さま」づけで名を呼ばれた異常に気づかない。

 本能寺の変の二ヶ月後あと、幽斎はとつぜん京都に姿をらわし、
「わたくし幽斎玄旨が主催者となって、信長さま追悼の連歌れんが会をひらきます、みなさまご参集ください」
 諸大名や僧侶、専門の連歌師などによびかけた。

 連歌は和歌の一種だが、個人ではなく、数人、ときには十数人が一堂に会し、会主からしめされる最初の句──発句ほっく──に自分の句をつけてゆく歌の会。発句と、発句につづく後句のつながりにその連歌会の雰囲気、主催者の姿勢や思惑など特有の性格がうちだされる。
 連歌会では生業なりわいの異なるひとたちと交際できる利点があり、そこが商人など新興階層に歓迎され、里村紹巴じょうはなど著名な連歌師が世にあらわれていた。
 幽斎が古今伝授者と知るひとは希少だが、織田信長の有力の家来であり、本能寺の変の直後に隠居したばかりというのは知れわたっている。幽斎はいわば〈時のひと〉なのだ。
 織田家の後継者が三法師ときまり、三法師を後継者にさだめたのが秀吉で、その秀吉が信長の葬儀を主催したばかり、戦局が完全に冷却したとはいえぬ時期だ。
 歌人として第一の名誉がある幽斎が信長追悼の連歌会をひらくといえば、表向きに反対できる大名はひとりもいない。もしも「出席せぬぞ」などと声明すれば、寄ってたかって叩かれ、滅亡してしまう。
 ──ふーむ。
 幽斎の智恵と頓智を称賛する溜息の主がだれであったか、それはたしかめられないが、この溜息こそは覚一、またはバンナ法師が待ちにまった得意の一瞬到来を合図した。
「信長追悼連歌会の場所、たぶん、それは・・・」
 覚一にもバンナにも言わせぬぞ、の意気込みで叫んだのはマサヒト親王にほかならない。
「本能寺の焼け跡、さようであろう!」

 本能寺の焼け跡、連歌会の会場設営費用は幽斎が支出し、門跡や公家武家、僧侶など各界の有名人が出席した。
 発句を詠んだのはもちろん幽斎。
墨染めの夕べは名残袖の露  幽斎
たままつる野の月の秋風   聖護院道澄
わけ帰る道の鈴虫音にきて 法橋ほうきょう(里村)紹巴
・・・・

 秀吉は豊臣という新しい姓をゆるされ、関白に任命された。関白は公家の最上位、朝廷の政策を決定し、執行する最高権力者だ。
 その関白秀吉によって、幽斎玄旨は法印ほういんに叙された。
 法印は朝廷から僧にあたえられる称号のひとつ。幽斎は昇殿がゆるされる殿上人になり、ときには関白秀吉のとなりに席を占めることもある。

33
「田辺籠城」
 関白秀吉の生命が尽きた。
 嫡嗣の秀頼が豊臣家の主となったが、その秀頼は、のちに戦国乱世とよばれる時代の主潮が大名の〈対立〉ではなくて〈統合〉にむかってながれているのを識ることができなかい。
 秀頼は徳川家康を頂点とする大老会議の傀儡にすぎず、大老会議が分裂すると時計の針は豊臣家滅亡にむかってまわりだした。
 上杉景勝を筆頭とする西軍-豊臣方と、家康を旗頭とする東軍-の対立の結末は東西両軍の戦闘できまる。
 関が原の東西決戦──
 細川家は父子もろとも秀頼と訣別し、徳川家康を盟主とする東軍に味方する。
 大老のひとり、会津の上杉景勝は大老としての勤務をおろそかにしたまま会津に帰国し、大阪へは戻ろうとしない。
 これはケシカランと怒った家康が、縄で縛っても景勝を連れ戻すと宣言して会津へ向かったが、景勝をおびき出す誘導作戦だから軍隊の進軍はゆっくりしたものである。
 細川忠興は宮津城にみずからの手で火をつけ、焼き、後顧の憂いをなくしてから宮津を発って東へ進軍しはじめた。家康と合流して景勝と戦うつもりだ。
 忠興の弟の忠隆もみずからの兵をあたえられ、兄の跡を追って東へすすむ。
 石田三成みつなりを主領とする西軍は田辺城の籠城軍を一蹴する勢いで攻めてくるはずだ。
 籠城軍が西軍を追い返し、田辺城を守る可能性はゼロである。
 そもそも、攻めてくる西軍を追い返すのが目的の籠城ではない。
「上杉を攻める、なんて、家康のごまかし作戦ではないかしら?」 今様歌姫のサワが、気負いもなにもない声で言ったものだから、一同は呆気にとられ、しかし、すぐに、
「サワさんの言うとおり、じゃないかしら」

 秀頼の重臣筆頭を自任する石田三成は秀吉が愛した伏見城を攻撃して、あっさりと落城させた。秀吉が死んだあと、しばらくは五大老の合議所として在日のヨーロッパ人などには〈ハポンの中央政府〉と認識されていた伏見城だが、上杉景勝は大老会議の警告を無視して会津に帰ってしまった。
 家康の数度の呼び家かけにも応じないのを口実に、とうとう家康は、
「会津を攻める。景勝を征伐して大老会議の権威をまもる」
 じつになんとも時代錯誤もはなはなだしい声明を発して大軍を江戸へすすめた。
 家康は、大阪には鳥居元忠をはじめとする小数を伏見留守番の名目でのこし、のこりの全軍を東へ向けた。
ある。
 残酷な言い方をすれば、
 ──できるだけ時間をかけて反抗し、ゆっくり、しかし全員戦死して時間を稼げ!
 家康の時間かせぎの伏見城死守作戦争、まさに、そのとおり。
 守備軍大将の鳥居清忠をはじめ、伏見城の東軍将兵には〈戦いに勝つ〉という気はぜんぜんない。
 勝つのは家康の訓令にそむくことになる。
 石田三成は伏見城を攻め、勝利をあげ、
 ──つぎは丹後田辺の舞鶴城だが、ここは忠興の先代で歌人としてはなかなか有名だという細川幽斎がわずかの兵とともに籠城している。
 一気呵成に攻めれば、降伏開城はわけもない!
 舞鶴城が陥落すれば、西に西軍味方は存在しなくなる。
 中山道か東海道か、いずれにしても、どこかの地点で家康と対戦して雌雄を決するつもりの石田三成、その背後に徳川家康を支持する軍隊は皆無となる。
 なんの不安もない。           
 
 細川忠興の妻は光秀の娘のガラシャ、夫が東へ向かったあと、ガラシャは自害した。自分が石田三成によって人質になれば夫はこころおきなく戦うことはできなくなる。武将の妻として、それは恥ずかしいと決意したうえでの自害である。
 幽斎は残留した家来をすべて田辺(舞鶴)城内に入れ、家来の妻子には、一切の始末がつくまでは然るべき由緒をもとめて城下から立ち去れと指示した。
 宮津城はすでに忠興が焼いた。丹後各所の砦まがいの施設もすべて焼き捨て、戦闘員と物資、戦力のすべてを田辺にあつめて西軍の攻撃にそなえる態勢ができあがった。

 カタヒト親王治世、カノエネ(庚子)の年のフヅキ(七月)、小野木重勝など石田方近隣諸大名の一万五千の軍が田辺城の南・西・東の三方を包囲した。北はすぐに海だから、田辺城へは蟻の這い入る隙間もない。
「田辺城の籠城兵力は?」
「多くみて五百」
「それなのに、幽斎は耐えた・・・のですね」
「耐えぬいた」
「なぜ?」
「古今伝授のちから」
「はあ・・・?」

「落城寸前、放っておけば幽斎も家来も飢えて死ぬ。なぜ、それが待てない?」
「幽斎は覚悟のこころを歌に託して発表した」
   いにしへも今もかわらぬ世の中に
          こころの種をのこすコトはハ
「歌の意味はむずかしくはない。わたしが死ねば、こころの種を未来にのこすコトのハは消滅しますが、それでよろしいのですか、と包囲軍を問い詰めた」
「皇室が案じたのは幽斎や家来の生命より、古今伝授にかかわる文書と口伝くでんでした。最後まで攻撃すれば、幽斎は文書、口伝を焼いて死ぬつもりだとわかる。だから、攻めきれない」
 交渉が中断し、もはや古今伝授の文書や口伝とともに田辺城も幽斎と家来も消えるのかとおもわれたが──
「なにが、どうなったのですか?」
「カタヒト親王の弟のトシヒト親王から、〈ワレの名義で講和交渉の勅使を任命する派遣する、戦闘停止と講和について勅使と交渉してくれぬか〉と申し出でがあった」
「当今の弟宮から勅使が派遣される、これは幽斎にとって名誉、承諾しても恥ずかしくはない」
「それで、戦闘停止、開城へと・・・」
「いや、最後の最後まで粘ったのがいかにも幽斎、家来とともに城から出ましょう。出るには出るが、戦闘に負けて城を出るかたちになるのはイヤです、と」
 そこでまた双方が協議し、勅使を案内した前田茂勝の丹波亀山城へ幽斎など籠城の面々がひきうつり、田辺城の管理も前田がひきうけるかたちをとって、ようやくおちついた。

 籠城して頑張っていた田辺城の外と中のあいだに、さまざまなかたちの文書が往復して、事態の結着がはかられたわけだが、たとえば、こういう文書があったのが注目される。
  「幽斎玄旨は文武の達人である。皇室では絶えてしまった古今和歌集の秘伝を受けている歌人だから天皇の和歌の師範というべき立場、神道和歌の国師である。いま玄旨が死ねば、古今伝授を後世につたえるのは不可能になってしまう。ゆえに、速やかに城の包囲を解くべし」
 カタヒト親王の直書といわれる文書で、真否のほどはともかく、こういうかたちの文書が登場してもおかしくない雰囲気になっていたのはまちがいない。

 関が原の東西決戦は徳川家康の勝利におわった。
 石田三成の一万五千の軍勢を数十日わたって足止めさせた幽斎の戦功は甚大とみとめられ、嫡嗣の細川忠興は肥後一国をあたえられ、父の幽斎とともに肥後の熊本城に移っていった。
 忠興の末裔、十七代の護貞もりさだは第百二十四代ヒロヒト親王の治世に近衛文麿首相の秘書官をつとめ、敗戦前後の政府を代表する高官だった。先祖の幽斎の事跡をしるした評伝『細川幽斎』は名著と評されている。
 文麿の子の護煕もりひろは新聞記者だが、いずれは政治家になろうとしている気配がみえる。

34
「こころとこころ コトのハでつながる」
 明石覚一は、細川幽斎が「コトのハ」の名文句をのこした丹後田辺城の攻防戦の一部始終を語った。
「フーム」
 王者にふさわしい溜息というものがあるなら、まさにこれ、というしかない溜息をもらしたのは、いうまでもない、カタヒト親王の遠い祖先のマサヒト親王だ。
「知らなかった!」
 子孫の言動を先祖が知らないのはあたりまえだが、親王の、この溜息には、そういう単純な時間の前後などには関係なく、美しく、感動的であるか、ないか、大切なのはその一事なのだと宣言して批判をゆるさぬ強靱がある。
「覚一さん、バンナさん」
「ははーっ」
「ワレの感動が薄れぬうち、一刻でも早く、丹後田辺城へ行ってくれよ。幽斎の昂揚した気分の幾分かはのこっているにちがいない。その、ほんのカケラでよろしい、胸に吹きこんで持ち帰り、ワレに見せてくれ!」
 浅草の宿から覚一とバンナの天空飛翔する風音がきこえ、追いかけるサワや内侍も飛びあがった。
 ──コトのハ、コトのハ。
 あとにきこえるのは、くりかえす親王の声。

「ここ、ですね!」
「この庭のあたりが田辺城の中心、幽斎と家来たちが石田三成の包囲軍を相手に奮戦していた」
「幽斎は『こころの種をのこす言の葉』と謳ったのだから『心種の園』などと命名すればよろしいのではないでしょうか」
「名案だ。浅草にもどったら、真っ先に親王さまにもうしあげる」「親王さまが舞鶴市に『心種園しんじゅえんの碑』を立ててはいかがか、などと提案なさるのもよろしいな」
「素晴らしい! ワレラ当道座の生き残り連中がここへ参った記念ともなります」

「当道座ときいては、だまっておられません!」
 ハモリ法師が冥界から通信してきたとわかる。
 覚一から「留守番をたのむぞ」と言われ、はりきって留守番をつとめているが、遠い浮世から、ほかならぬ覚一の声で「当道座」というのをきいてはだまっていられなくなったのだろう。
「ハモリよ!」
「覚一師よ、おひさしぶり」
「〈魂はひとりにひとつ、別々に〉と規定したハモリ法師、こころの種についても、名文句ができるのではないかな」
「出来あがっています」
「早いな!」
 ハモリ法師、ひといきついて、
「こころとこころ コトのハでつながる」
「できた!」
「コトのハがなければ、冥界でも浮世でも、ヒトはばらばらに生きて、ばらばらに死ななければなりません」
                     (第2部-5)終