『阿波内侍から島倉千代子へ』(第2部-6章)



               髙野 澄 (著)
第2部
「東京だよ おっ母さん」
第6章
「ワレラはなにをやってきたのか?」

35
 魔が差す──
 このように呼ばれ、このように意識される時間というものが冥界にもある。
 「魔」という文字で表現される現象は浮世に独特な事態であり、善と魔の区別がない──らしい──冥界には無縁のようにおもわれがちだが、それは即断にすぎない。
 そういうわけで、冥界から東京にやってきて浅草の宿にたむろしている面々にも魔が差した。
 最初に気づいたのがだれか、判然とはしない。
 ご本人が〈なにやらおかしい〉と気づいても、魔に差された被害者意識がなければ、それをそうとは感じない。
 最初に魔に差されたのがだれか、判然とはしないが、同時にふたり、という測定基準を適用するのがゆるされるならば、ご本人をあてるのはわけもない。
 浅草の宿の二階の廊下で、シンコ法師と阿波内侍が面とむかって顔をあわせ、よほど観察眼のするどいひとでなければどちらが先にと区別もつかぬまま、ほとんど同時に双方から問いの言葉を発した。
「アアッ!」
「オオッ!」
 アアッは、あえていうなら女性に固有の発音にふさわしく、オオッは男性がみずからの弱さ、自信のなさを隠して強そうにみせかける常套語だとすれば、アアッが女性すなわち内侍、オオッはしたがって男声のシンコ法師とすればいい。
 ただし、第二幕はあきらかに女性の内侍が主役、男のシンコ法師は一瞬の遅滞という不名誉にまみれた。明瞭な言い方で問うたのは内侍であったから。
 出会いがしらの挨拶がわり、そんなふうな調子の声で、内侍が、
「老師さま、なにか、おかしな雰囲気、感じませんでしたか?」

 二階の廊下、南にむかって寄り添うシンコと内侍の姿は朝湯から帰ってくる中年後期の夫婦もののようにみえるかもしこれないが、それならば錯覚、ふたりの居場所が浅草であろうと日暮里であろうと実体はないのだから、みた目の相違の区別など、あるはずがない。
 ないものを、あるかのように、みせている。
 つまりふたりは、自分の苦境というか、おそろしい事態の予感を感じているにもかかわらず誤魔化ごまかしているが、そのふたりが出合ったとたん、たがいの状況を悟った。
 ──肩のあたりの皮膚の震えかた、内侍さんは魔に差されたのだ!
 ──すぐに口がきけない、シンコ法師は魔に差されたのよ!
 それが幸いした。
 そうでなければ、ふたりはたがいに疑心暗鬼、ああでもない、こうでもないと相手のハラをさぐり、敵対の関係におちいってしまったかもしれない。
「ワレラはなにをしているんだろう──コレでしょ」
「ソレ、ソレ。冥界から天空飛翔して浮世の東京の浅草にいるんだが、ここ数日、ふーと、ワレはなんのためにここに来ているのかという疑念がわき、寝ても醒めてもソレばかり」
「わたくしの察したのがまちがいでなかったとわかり、とりあえずは安心しました。じつをもうせば・・・」
「ええっ! 内侍さまもわたしとおなじ疑念にとりつかれた、まさか!」
 こうしてふたりは、たがいの顔をじっくりとみつめあった。
 ふだんなら失礼このうえないが、この時、この場では、こうしなければ失礼、いや、失礼どころか、するどい凝視になりかねない。
 みつめあい、まずは内侍が口をひらいて、
「親王さまにも参加していただき」
「お言葉も、お顔も出していただいて」
 みんなで討論しましょう──そうと決めて、別れた。
 別れ際、シンコ法師が、
「討論をいたしますともうしあげれば親王さまは、トウロンとはなにかとおたずねなさる」
「言い合うのです、みんなで、ともうしあげれば・・・」
「喧嘩口論の言い合いとまちがえ、目をシロクロなさる」
「そして、すぐに事情を推察なさいましょう」
「さように聡明でなければマサヒトさまではありえぬ」

 ふたりのあいだで諒解がついて、宿の二階の廊下の西と東にわかれた、その直後、ふたり同時にふりかえって、さきに口をひらいたのが内侍。
「わたくしたち、気づかぬうちに、なにか、とんでもないまちがいをしているのではないかしら?」
「そう、いえば・・・」
「アー」と内侍が言い、「ウー」とシンコがうけて、こころが通じ合い、
「ワレラふたりと親王さま、あわせて三人だけで討論するなんて、まちがってますよね」
「内侍さまに先を越されて口惜しいところですが、それはあとまわ
し、おっゃるとおり、まちがっています」
「おなじまちがいを?」
「そうとしか、かんがえられませぬ」
「では・・・よろしいですね」
「よろしい」
「ワレラすべて、たがいに通信し、討論しましょう!」
 冥界は浮世よりも大きくて広く、浮世は冥界のなかにふくまれているから、浮世のひとも参加できる。
 親王マサヒトに告げたところ、
「ワレも参加できる──のだね?」
「特別あつかいはできませぬ」
「よろしい!」

 浅草の宿における討論会「ワレラは今日までナニをやってきたのか」討論会の発言抜粋
(01)
「最初に発声したひとに見解表明の権利が生じます──どうぞ!」
(02)
「ワレラ全員、阿波内侍と明石覚一おふたりが先駆者だと存じている、それをまず確認しようではありませんか」
(03)
「同意!(全員)」
(04)
「内侍さま」
(05)
「最初なのは否定しませんが、あれから長い時間がすぎ、最初のいきさつの大半を忘れてしまいそうで、不安です。覚一師の助けをいただくのを、みなさま、お許しください」
(06)
「みなさま、意見を──挙手大半──覚一さん、意見をどうぞ」
(07)
「覚一です。はじめに、マサヒト親王さまの大原御幸の結果について、内侍さまから伺いましょう」
(08)
「記憶は鮮明です。女院さま、典侍さま、わたくし内侍、三人ちからをあわせ、マサヒト親王さまを惑乱させて手ぶらでお帰りいただきました。ああー、親王さま、惑乱させて、など、とんでもない失礼を」
(09)
「事実はそのとおり。じつになんともうまくやられたものよと、腹が立つよりは愉快で、愉快ゆえに『還御なしまゐらッさせ給へ』は強烈でした。滅多には得られぬ経験、恨んではおらぬぞ、内侍」
(10)
「つづいて覚一さん」
「内侍さまの『還御なしまゐらッさせ給へ』で、声のちからということの比類のない強さは確信いたしましたが、その直後に直面したのは、声のちからについての、内侍さまとワレラ盲人法師の立場の相違です」

 数万、いや、数十万、いやいや、百万単位を想定すべきではないか、天空の下をうずめつくした討論会場が揺れた。内侍と盲人との慰霊の祈りの声のちからを比べれば、盲人は内侍にかなわないと当道座の頭が白状したのも同然だから。

(12)
「覚一師に質問、ゆるされますか?」
(13)
「ご一同、如何?」
(14)
「同意」
「不同意」
「同意多数、覚一師への質問はゆるされます、どうぞ」
(15)
「当道座の慰霊祈禱は内侍さまの安居院スタイルの慰霊祈禱に劣る、それが覚一さんの評価ですか?」
(16)
「そのとおりです、ワレラは内侍さまに劣ります」
(17)
「もうしすこし詳しく説明してください」
(18)
「内侍さまは女院の侍女だから平家一門の亡魂とは縁が深い。〈今日は那須与一さんを慰霊します〉と名前がうかんだときに、すでに半分以上の慰霊効果があがっています。与一さんは〈内侍さまがワレを慰霊してくれるのだな〉と知って、慰霊の祈禱のコトのハを待ちかまえる、通じやすいわけです」
(19)
「覚一さんのほうは・・・」
(20)
「清水寺の前でワレラ法師の慰霊をきいて、お気に召したらゼニを払ってもいいとお待ちのかたがたが、平家の、なんという名前の亡魂にこころを通わせたいのか見当をつける、それがいちばん大切、そしていちばん、むずかしい。このひとは平家のどなたとこころを通わせたいのか、見当がつきさえすれば、うまくいく。ゼニもたくさん払ってくれて、つぎの日にも清水寺の門前で待っていてくれる」
(20)
「そのまま進めばよかったのに、ご自分のやりかたに不安、疑問をもった。なぜでしょう?」
(21)
「平家の亡魂は、ひとり、またひとり、慰霊されて恨みと悲しみが消え、平穏になられ、当道座の仕事はなくなります。琵琶を弾いて平曲を語るよりも、按摩・鍼・灸の仕事が主になります。自分で稼いで生きていけるのだから不満をいえる立場ではないが、みえる目のかたがたの按摩と競争すればワレラの不利はあきらか、前途が不安。平家のほかの、ふつうの方々の亡魂を慰霊する技芸を磨いておくのが大切なり、それには内侍さまのやりかたを習得せねばと念じていたところへ、きこえたのです」
(22)
「きこえた・・・そ、それがH少年の・・・」
(23)
「はい。Hさんの見えずとも きっと見えます 見えました   の歌声だった」

 天空の下、満天下の空気が揺れた。
 ──ミエズ、ミエマス、ミエマシタ!
 ──ミエル、ミエナイ、キットミエル!
 ──ミエマシタ、ミエル目、ミエナイ目!
 ──ミエルモノ、ミエナイコト、ミエルモノ、ミエナイコト!

(24)
「ワレラの合言葉を、シンノウさま、どうぞ!」
七里文代ななさとふみよの目!」
   「司会者の特権として言わせていただきます。文代の目は空気銃の事故でみえなくなったが、代わりに、こころがみえる目を与えられた。こころがみえる目は空気銃の事故などで見   えなくなることはない」
(25)
「覚一です。わたくしからも、ひとこと。文代の目がみえなくなったのは、その次にくる不吉なコト、悲しいコトの予告でもありましょう」
(26)
「覚一さん、もうすこし説明を」
(27)
「みえるはずの、ふつうの目でもみえなくなるのです、弱いモノ、ちいさなモノがみえなくなります」

36
「文代も目ン無い千鳥」
 H少年が唄う主題歌「新妻鏡」、この歌声を内侍と覚一が耳にし、天空飛翔して東へむかわずにはいられなくなったのがすべてのはじまりだった。

 みえていたモノが消えてゆく、みえなくなってゆく。
 映画「新妻鏡」が歓迎され、主題歌「新妻鏡」と挿入歌「目ン無い千鳥」がレコードになって大ヒットしたのはヒロヒト親王の十五年目だが、その前年の松竹映画「純情二重奏」が大ヒット、コロンビアレコードから発売された主題歌「純情二重奏」も爆発的なヒットの記録をつくった。
 作詩は西條八十、作曲は万城目正、映画の主演女優をつとめた新人歌手の高峰三枝子はスター歌手の座も手に入れた。
「西條八十は歌を忘れた金色雀の作詞家だね」
 マサヒト親王の記憶力にはだれも驚嘆する、天皇経験者はかくも記憶力が強いのかと。
 唄ってみてくれ──親王がお望みなさったので、ヤマモモ法師が歌唱役を買って出た。

1)森の青葉の 蔭に来て   3)母の形見の 鏡掛け
なぜか寂しく あふるる涙  色もなつかし 友禅模様
想い切なく 母の名呼べば  抱けば微笑む 花嫁すがた
小鳥こたえぬ        むかし乙女の
  亡き母恋し         亡き母恋し
➁君もわたしも みなし児の 4)春は燕 秋は雁
ふたり寄り添い 竜胆りんどう摘めど 旅路はてなき みなし児二人誰にささげん 花束 花輪  合わす調べに 野の花揺れてこだま こたえよ      雲も泣け泣け
  亡き母恋し         亡き母恋し
                     (注○)

「お母さんが亡くなった事情はわからぬが、それにしても悲しい歌だ」
「親王さま」
「うう」
「お気づきになりませぬか、君もわたしもみなし児の、みなし児二人です。ひとつの歌謡曲に親を亡くしたみなし児が二度も出てきます。君もわたしもみなし児の、みなし児二人なのですよ」
「大変だ、そりゃ、むごい!」
「兄弟姉妹はどうなのか、歌詞には出てきませんが、幼いうちに両親を亡くした児はみなし児、字に書けば〈身無し子〉でしょう」
 討論会場を埋めた盲人のあいだに〈身無し子〉の文字表現についての認識がひろまるまでに時間がかかり、終わって、
「なにかあったのかね、列車事故、伝染病、大規模地震、山は洪水海は津波」
「事故や伝染病による死亡がゼロではありませんが・・・」
「そのほかに?」
「戦争です」
「センソウ!」
「はあー」
「親王ムツヒトの軍隊と徳川との戦いはムツヒトが勝っておわったのではないか?」
 マサヒト親王の顔に濃厚な不審の色。
「徳川との戦いはおわりましたが、徳川よりももっと強力な軍隊との戦いがはじまったのです」
「徳川より強い軍隊──そのように恐ろしい軍隊がこの世に存在するとはおもわれぬが──おおっ、もしかして南蛮なんばん、でなければ紅毛こうもうかな」
韓国かんこくまたは朝鮮といって、海の北の大陸の鼻の位置から、ここちらへ向かって突き出ている国です」
「ははあ、ヒデヨシが攻め取ろうとした韓とは、それか。ヒデヨシが攻めても取れなかった韓、それを、なぜ、ムツヒトが?」
「徳川に勝ったあと、ムツヒト親王の政府は韓と国交をひらこうとしましたが、拒否され、ならば軍隊を送り込んででも門戸をひらかせるぞという強硬論の長州と、しばらくは交渉をつづけようという穏健論の薩摩に政府が分裂しました。薩摩の代表者でムツヒト親王の信任篤い陸軍大将の西郷隆盛は・・・」
「西郷隆盛、名は存じている」
「西郷は、いますぐに韓を攻めるならワレは陸軍大将を辞めるぞと長州を脅しましたが、長州が屈しなかったので西郷は大将を辞任して故郷へ帰り、政府の軍隊から脱退した下級士族と共に薩摩を自分の領国のように支配しました」
「ムツヒトは、どうした?」
「西郷を庇いきれなかったのですな」
「苦しんだに違いない、可哀そうなムツヒト!」
 末裔のムツヒト親王の苦悩を洞察するマサヒト親王は、源氏と平氏の争いに巻き込まれて苦しんだはるかなむかしを回想し、ムツヒト親王と自分とをかさねているはずだ。
「ムツヒト親王の十年、西郷は反乱をおこして敗れ、鹿児島で戦死します」
「それで、おわり、のはずだ」
「それが、おわらない、のです」
「なぜ?」
「長州派の政治家が中心の政府は韓が戦争に弱いと知ったのです。ムツヒト親王八年九月二十日、燃料と飲用水をもとめて許可なしに韓国の江華島の港にはいった親王の軍艦が砲撃されたのをきっかけに小規模な戦いがおこり、親王の軍隊が勝って韓国は謝罪、外交がひらかれました」
「それで、おわり、ではないのか?」
「おわり、どころか、これから戦争がはじまるのです」
「奇妙なはなしだ、なぜ?」

 バンナ法師が広い紙をもちだし、親王の前にひろげて、図を描いた。
「この細長いのがムツヒト親王が統治なさっていたワレラの国」
「おお」
「海の向うに、まず韓国、そのまた向うに清国、そのまた向うにオロシャの国」
「遠くへいけばいくほど、国土が広い国があるわけだな。そして、ワレの遠孫ムツヒトの国はこれほど狭くて、小さいのか!」
「清国もオロシャも、もっともっと国土を広くして豊かになりたい。それにはまず韓国を攻めて勝ち、韓国から海に、つまり太平洋に出て、それから広い世界に出ればいいのですが、韓国が国の扉をひらかないから海に出られなかった。ところが、ムツヒト親王の軍隊が韓国に勝って門戸をひらいたのをみて・・・」
「そうかっ、韓国の奪い合いだな!」
 バンナ法師は紙と筆をほうりなげ、マサヒト親王の理解力に驚嘆し、結論をくだした。
「それからというもの、ムツヒト親王の軍隊は手当たり次第、とでもいうしかない勢いで外国に出ていって外国の軍隊と戦い、勝てば現地に駐留し、その数量は増加の一途、減るということがなく、戦没する将兵の数も増えに増え、物資輸送や塹壕掘りなどの要員として徴用された民間人もふくめて二百三十万人も戦没して終わったという噂があります」
「ニヒャクサンジュウマン!」
「はあ・・・」
「噂があります、などと、呑気な言い方だが、バンナ法師よ・・・」
「みえなく、なったのです。その数がおよそ・・・」
「ニヒャクサンジュウマン!」
「外国で戦って死ぬというのは、つまり、消えてみえなくなる、わけだね」
「遺骨になって発見される例もかぞえきれぬ」
「遺骨はみつかるかもしれぬが、そういうのを〈生き返り〉とは言わんな」
「みえなくなる、のです。つまり、浮世から居なくなる」
「居なくなれば、みえない・・・」
「そうだっ」
 するどい叫び声の主の姿はたしかめられない。
 討論会の場は、あちらに上がる手、こちらにあがる発言をもとめる声で埋めつくされ、おさまりがつかなくなった。
 混乱のなかでただひとつ確かめられたのは、討論参加者のうち、十人よりはもっと多い数の口から一斉にあがった同調の声だ。
「七里文代の目から消えたのは・・・」
「ほかでもない、醍醐博」
「小説や映画では醍醐博が消えてしまえば筋が成り立たないから、文代の目がみえなくなったということにして、挿入歌の「目ン無い千鳥」では文代の視界から博の姿を消した。なぜ、みえないのかといえば、存在がないから、だ」
「七里文代も目ン無い千鳥だった!」

37
「アニさまがみえなくなった」
 消えたまま、帰ってこない男の数が増えてきた。
 死んだのではない。
 臨時招集令状がきて兵士として徴兵された男の姿が消える。
 帰ってくる男もあるし、いつになっても帰ってこない、つまり消えたまま、みえなくなった男もある。
 みえなくなった兄のことを唄う弟または妹が唄う歌が雑誌「少年倶楽部」に発表されたのはヒロヒト親王即位十年であった。
 タイトルは「もずが枯木で」、作者は映画「新妻鏡」の挿入歌を作詩したサトウ・ハチロー。
 ハチローの詩集「僕らの詩集」に発表されたという説もあり、確定はできない。曲をつけたのが徳冨繁だと判明しているので童謡としてあつかわれ状況もわかっている。
     
  「もずが枯木で」
1)もずが枯木で鳴いている
 おいらはわらをたたいてる
 綿わたびき車はおばあさん
 コットン水車もまわってる
➁みんな去年とおじだよ
 けれども足んねえものがある
 あんさの薪割る音がねえ
 バッサリ薪割る音がねえ
3)兄さは満州へいっただよ
 鉄砲が涙で光っただ
 もずよ寒いと鳴くでねえ
 兄さはもっと寒いだぞ(注○)

あんさは、なにをしに満州へ?」
「兵隊として戦争するために」
「兄にかたきがおったのか、敵討ちか?」
「兄の敵ではなく、あえていえばヒロヒト親王さまの敵でしょう」
「ヒロヒトに敵がおったのか?」
「満州に陛下の敵がいるから征伐します、軍隊出動を許可してくださいと政府がヒロヒト親王に願い、親王がおゆるしなさったということで・・・」
「ワレの子孫のヒロヒトを皇位からひきずりおろそうと画策する動きがあった、かのようにおもわれるが・・・」
 マサヒト親王の頭にアキヒト親王の風貌がうかんでいたのが推察される。マサヒト親王にとって〈敵〉といえば異母兄のアキヒト親王のほかにはない。マサヒト親王に敗北して上皇の地位から引きおろされて讃岐におくられ、讃岐院の尊号をあたえられ、讃岐で没したのがアキヒト親王だ。

 バンナ法師は苦しい。
 国と国が敵になって、双方が武器をもちだして戦い、戦死者が出る、というのを親王にわかってもらうのに苦労する。
 バンナ自身、国と国との戦争にまきこれまた経験がなく、一日の時間のほとんどを図書館ですごして写真集や文献資料で大東亜戦争の実情をしらべるしか方法がない。
「源平が戦って雌雄を決する──そういう性質の戦いならワレにも記憶はあるが・・・」
 ブスッとした顔色もたっぷりに親王が言い、バンナが無言でうけとり、
「挿入歌「目ン無い千鳥」では七里文代の視界から醍醐博が消えるのですが、おなじサトウ・ハチロー作詞の「もずが枯木で」では、歌詞には登場しない弟か妹の視野から消えてみえなくなってゆく過程をリアルに唄っている。おなじ親から生まれた兄弟姉妹、切っても切れない肉親の関係、それだけに限定性が強いのです」
あんさはかならず死ぬ、もう二度とは会えないんだと・・・?」
「満州という知名が恐怖のシンボルになりつつありました」

38
あんさはモノノフなのか?」
 ムツヒト親王の政府と帝政ロシアは清国の満州=東三省(黒竜江・吉林・遼寧)と朝鮮半島の覇権をめぐって争い、親王三十七年から八年にかけて戦争し、親王の軍隊が勝って満州一帯の支配権をにぎった。
 敗戦のロシアでは社会主義革命が成功して労働者と農民によるソヴィエト政権が樹立され、強力な軍隊によって満州からムツヒト親王の軍隊を追い帰そうとした。
 清国の土地は両軍の戦争によって荒らされ、孫文による革命運動が成功して清朝政府を倒し、中国人による中華民国を成立させたのがムツヒト親王四十四年のことだ。
 親王の政府は満州に続々と軍隊をおくりこみ、主要地の支配権をにぎって事実上の植民地とした。
 関東都督府という満州統治の役所が設立され、やがて軍隊が独立して関東軍とよばれる。「関東」とは東京を中心とする関東地方一帯のことではなく、ムツヒト親王の政府が満州を統治するための役所の公式な名称だ。
 朝鮮半島の全体はすでにムツヒト親王の政府の領土として併合さているから、満州のどこかでソヴィエト軍とムツヒト親王の軍隊が衝突するのは時間の問題となっていた。
 満州は危険に満ちた地、というのはわかっていたが、その反面、魅力に富んでいる地だという願望をうけとめてくれる伝説のようなものができあがっていた。
 ──小作人には土地を分けてくれる・・・そうだ!
 ──満州の農民を雇って働かせ、こちらは懐手しているだけでコメもムギも採れるそうだ!

「海の向うの、よその国と戦って勝って、よその国の土地を手に入れたのか、わが子孫のムツヒトは!」
 羨望の顔色も、称賛の語調もともなわない、あえていえば呆然ゆえの失語、そうとしか言えないマサヒト親王。
「負け戦ということを知らぬ当今さまとしてのご生涯をお過ごしなされた、さように申し上げれば」
 阿波内侍、覚一法師、傀儡の歌姫サワ、バンナやシンコ、そのほかの法師たちはマサヒト親王より一歩も二歩もおくれ、なにがなんだかわからないけれど、親王さまはお楽しみではおられない、それだけは確かなことだとのおもいで一致している。

 浅草の宿に頼りない、ぼんやりとした空気が流れてやまぬ事態になったのかと一同が憂鬱になりかけた、まさにその時、救いの手をさしのべるかのように、マサヒト親王が口をひらいた。
「サトウ・ハチローの兄さまかもしれぬそのひとは、モノノフの身分である、そうおもってまちがいないな?」
「はーあ?」
「モノノフ・・・ですか?」
「ちがう・・のか」
 バンナ法師はシンコ法師の手をとり、手のひらに文字かなにか、しるしを描く仕草をしている。
 ──親王さまがモノノフとおっしゃっているが、なにが、どのように関係してこの場にモノノフが出てくるんだろうか?
 不審でいっぱいの気持ちを古老シンコ法師の智恵によって処理してもらいたい、そのような気分のバンナとわかる。さすが識者のバンナでさえ苦痛の場となっている。
「ちがうのか」
 気軽な調子で親王は、つぎの言葉を発した。
「鉄砲が涙で光っただと唄っているからには、兄さまは農業をするために満州へゆくのではない、軍隊にはいってソヴィエトか中華民国と戦うつもりだ、戦うのはモノノフの役目ときまっておる。モノノフが戦うには主君の許可を取らねばならんはずだが、それは、どうしたのか。主君の許可なしに満州へゆくなら反逆行為だ」
「兄さに主君などおりませぬ。本人に誇りというものはありましょうが、ただの農民、百姓ですから」
「ただのタミ?」
「ただのタミ・・・はあ、そのとおりです」
「タミが武器をもって戦場にゆくなど、滅相もないことを、だれがきめた」
「ムツヒト・・・」
「ワレの遠孫、百二十二代のムツヒトが?」
「まちがいございませぬ」
「ならば、ならば・・・」
 マサヒト親王がなにか言おうとしているのはたしかだが、唇がぶるぶる震えて呼気吸気が言葉を形成できないのがわかる。
 ──どう、なさいました?
 質問するのさえ憚らねばならん、それくらいの親王の苦しさだ。
 親王と法師、内侍やサワたちとのあいだに、言葉の切れ端のやりとりとでもいえばいいか、双方ともにコレでいいのかどうか、わからぬけれど、ほかに手がないと理解が一致した小間ぎれの応答のすえに、
「士農工商といって、江戸時代には四民と呼んでいた民をあわせて国民とし、天皇の臣下の最下位に組み込んだのか!」
「さようです。それぞれに苗字もあたえられました!」
 法師の、だれかの、称賛にみちた同意がえちこちできこえたが、それは親王にとって嘆くべき悲惨な現象として受けとられた。
「モノノフを軽蔑してはならんが、そもそもモノノフとはなにか、おのおのがたはご存じなのか?」
 ──わかりきったことを、いまさら、なぜ、親王さまは?
 法師たちの疑問は無人称、いわばその場の雰囲気といったかたちで親王につきつけられた。
 そうと察した親王、すかさず、
「天皇は大名に土地をあずけ、大名を領主としてコメ・ムギ・魚・海草・木材・大根・蜜柑や柿などを民に生産してもらった。民に感謝こそすれ、臣下ではないからという理由で軽蔑することはなかった」
 一同の頭がさがったのは、親王の言い方に感じられる奥の深さゆえだ。
「そもそも民とは身分ではない。身分ではないから主君というものもない、上と下の主従関係もない」
「だが、となりの大名と戦いがおこると、大名は民に頭を下げ、槍や弓矢を持たせ、兵士として戦場に出てもらうしかない。槍や弓矢や銃をモノというから、モノを持って戦場に出てゆく民を〈モノを使う専門の役のもの〉の意味でモノノフと呼んだ。〈失礼な呼び方だが、こらえてくれよ〉という気持ちをこめてのモノノフ、〈武器持ち人夫〉の意味のモノノフだ。モノノフに〈武士〉の字をあてて誇りの呼び方だとする解釈があるようだが、とんでもない」
 親王のものの言い方がすこしずつやわらかになる。
 親王と一同のあいだの精神の立場が接近する。
「民がモノノフになるのはほんの短い、一時のことなのに、ムツヒトはそこをまちがえた。まるで、母親の腹のなかからモノノフで、死ぬまでモノノフであるかのように」
「苗字をもらって嬉しかったようですが、じつは、嬉しいどころではない。鼻木はなぎをつけられ、飼い主のおもうように引きずられる牛のように、苗字で天皇に縛りつけられたのだ」
「民の鼻木が徴兵制度なのですね。親王さまにおっしゃっていただき、はじめて理解がいきました」
 ──それにしても・・・
 バンナが言いかけたのを、さえぎるように、親王が、
「昨日までバッサリと薪を割っていた兄さは、帰ってこない、消えてしまう、みえなくなってしまう。帰れないと知っていたから兄さの鉄砲が涙で光っていた」
「民に苗字をあたえ、臣民などという得体の知れぬ用語をつくったのもムツヒトであるな。わが遠孫とおもえば叱責したくはないが、これはゆるせぬ」
 親王が顔をぐるぐるとまわしていたのは、サワの姿を探していたにちがいない。
 サワをみとめると、
「ワレが編纂した『梁塵秘抄』に、モノノフを立派だとか、キリリとして動じぬ姿がよろしいとか、生命を捨てて敵陣に切り込む姿が晴れがましいとか、称賛する文句はあったかな」
「そのようなつまらぬ言葉、ワレラ青墓傀儡の口から出るはずはございませぬ」
                     (第2部-6)終